FROM:川畑のぶこ
メディテーション=Meditationは瞑想と訳され、
私自身も仕事でクライエントと、また
プライベートで自身の心を落ち着かせるのに
メディテーションを行いますが、
瞑想以外にも反省や黙考という意味があります。
哲学者であり、ローマの五賢帝の一人、
マルクス・アウレリウスは晩年、
毎日のようにメディテーションを行っていました。
彼は、日々を振り返り、
いかに人生を善く生きるかについて、
自分自身へ向けたメッセージを綴るというかたちで
内省をしていたのですが、この記録は
誰かに読ませるために綴られたわけではなく、
あくまでも自分自身のために綴っていました。
ところが、これが後に多くの人にとって
バイブルのように読まれることになります。
私自身にとっても、アウレリウスの自省録は
バイブルとなっています。
哲学者で賢帝というと、
自分とは程遠い人で、なんだか堅苦しかったり、
壮大な理想を掲げたりしていて
庶民にはついていけないというイメージがあり、
敬遠しそうになりますが、
この自省録は、アウレリウスの苦悩が透けて見え、
彼もまた私たちとおなじ、
一人の悩める人間に過ぎないのだという
親近感を覚えながら読み進めることができます。
そのテーマには、
怒りをどのようにマネージすればよいか、
仲間や相手とどのように向き合ったらよいか、
死の恐怖をどのように向き合えばよいか、
今抱えている苦しみをどのように乗り越えればよいか、
成功や権力をどのようにつかうべきか、
などといったものが含まれます。
成功や権力に関しては
彼の課題と私のそれはレベルが大きくかけ離れて
いるものの、悩みの質はほぼ一緒です。
そして究極の課題は手放すこと。
これは、すなわち
己の人生や宇宙を信頼することであり、
アウレリウスもこれらに対する信頼感を育もうと
努力していたことが伺えます。
まさに断捨離の境地ですね。
この世や自然界に対して
「あなたの欲するものを与え、
あなたの欲するものを奪って下さい」
という姿勢を育むことと
アウレリウスは記しています。
彼はそれを強がりで行うのではなく、
自然に対する従順と善意から行うことが大切だ
といいます。
これは育むのにかなりハードルが高い姿勢であり
価値観ではないでしょうか。
このような境地を理解するのに、
いくつか大切なキーワードがあります。
ひとつは、ダイモーンという概念で、
神と人間の中間に位置する存在が教え導く声、
直感的な教えで、
人間の心の中にある神秘的なものを指します。
そして、もうひとつに、
指導理性(ト・ヘーゲモニコン)=叡智で、
宇宙を支配する理性の一部、
すなわち神的なものの分身で、
人間の心の中に座を占めるダイモーンであり、
人間の人間たる所以のものであるとしています。
この指導理性は人間を正しく導くものであり、
人間の自然に備わっているものとされています。
自然界にも私たちの内にも、
優れた指導者がきちんと宿っていて、
何をすればよいかすべて知っている
(ただしそれは必ずしも私たちのエゴを
満たすものとは限らない)という、
これらへの信頼の有無が心の平安や
穏やかな人生に影響を及ぼすということです。
アウレリウスの自省録から、以下指導理性と
ダイモーンに言及する一文を紹介します。
「私を取り上げてどこでも君の好きなところへ投げ給え。
私はそこでも私のダイモーンを平静に保つであろう。
平静とはすなわち、自分が自己の構成素質にかなった
態度と行動を取るならばそれで満足している、
という意味である。
このことのために私の魂が苦しみ、
真の自己よりも卑しくなり、低くなり、
がつがつし、溺れ、驚愕する━━
いったいこれはそれほど価値のあることであろうか。
そもそもこんなことに値するほどのものを
君は発見できるだろうか。」
唸るばかり。
しがみついているものを手放す勇気を
与えてくれるのではないでしょうか。
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